治水事業の沿革
江戸時代
家康が駿府城の築造に伴って安倍川を制御して以来、巴川の水量が減少し、巴川舟運にとって、平水量、低水量の減少が問題となりました。また、巴川は麻機から海までの高低差が極めて小さいため、支川から流出する土砂がすぐに堆積し、水流が滞って周辺の耕地が冠水しました。そのため、近世以降、治水対策の要として浚渫が行なわれました。浚渫は新田開発とも一致することから、官民両者の治水工事が繰り返されることになりました。
流域の村はこうした問題に早くから自主的に対処してきましたが、享保15年(1730)に村々が合同して大規模な浚渫工事(洲浚普請)を行いました。この「定浚御普請」の制度によって、文政9年(1862)まで95年にわたって巴川の浚渫工事が続けられました。
江戸時代以降、山あいの田んぼから氾濫の起こりやすい低平地部での新田開発が行なれるようになり、巴川の治水・利水の整備は流域のさらなる発展に不可欠となりました。
水天宮と常夜燈(葵区上土)
明治~大正時代
巴川流域は高低差が少なく、また、長尾川などの支川からの土砂流入により周辺水田が冠水してしまう状況のため、周辺の関係村々は明治10年「巴川水腐組合」、明治22年「巴川浚渫組合」、明治37年には「巴川水害予防組合」を結成し、川さらいなど延々と力を合わせて整備を行ってきました。また、明治20年代には佐分利一嗣工学博士を招き、初めて流域の総合的な洪水対策が立案されましたが、抜本的な改修事業の進展にはいたりませんでした。
明治33年9月の大洪水は、東海道線鉄道橋が大きな障害となったことから、鉄道橋の拡大(河幅を広げる)を要望する声が高まり、巴川水害予防組合が明治37年に結成され、巴川改修事業が開始されました。工事は明治40年6月に始まり、大正2年7月に竣工しました。さらに「土地改良区」に引き継がれ大正10年には上土までの改修が完了し、これにより麻機沼(浅機沼)や上土周辺の排水改善がなされました。
現河道と河道跡(清水区東大曲町)
戦後:昭和~現在
昭和33年7月の台風11号による長尾川の2箇所にわたる決壊と、麻機付近の大正13年以来の湛水及び旧清水市の災害などにより河川計画の再検討を必要とするに至り、大谷川放水路計画が検討されました。
放水路は旧清水市にとっての最大の煩いを為す長尾川の流量と合わせて巴川上流の流量を大谷川に分流するもので、旧静岡市は事業の促進を図るための地元の協力体制を得るように努力しましたが、上下流の利害相反する放水路の性格から地元調整に時間を要しました。
このような状況の中で、昭和49年七夕豪雨が発生しました。この水害では、床上浸水だけでも約14,000戸にのぼり、しかも市街地浸水の約8割は近年20年間に開発されたものであったことから、放水路の建設の機運は一気に加速されるようになりました。
昭和53年から多目的遊水地事業、昭和54年からは総合治水対策特定河川事業が進められ、昭和55年9月には県・静岡市・清水市による「巴川流域総合治水対策協議会」が発足しました。
昭和57年には総合治水対策の基本となる「巴川流域整備計画」が策定され、治水計画を中心に土地利用、流域対策などを総合した整備が実施されることとなりました。
現在、流域の治水安全度をさらに向上させるため、平成11年度に策定した「新流域整備計画」に基づき時間雨量69mm(概ね10年に一度の降雨)に対する河川施設等の整備を進めています。
総合治水対策事業
総合治水対策事業の概要
総合治水対策は、急激に流域の市街化が進み、治水安全度の低くなっている都市河川を整備する緊急的な治水事業であり、河川改修、放水路、遊水地といったハード面の対策だけでなく、流域の適正な土地利用の誘導、開発に伴う流出増の抑制、建築物の耐水化などのソフト面の対策を含めることにより、流域全体で洪水被害を軽減することを目的としており、巴川は昭和53年に全国にさきがけて適用されました。
総合的な治水対策システム
総合的治水対策のイメージ
巴川流域の治水計画
巴川の治水計画は、昭和49年7月の七夕豪雨を契機に、昭和56年度には『巴川河川改良全体計画』を策定し、昭和61年4月に『巴川水系及び大谷川水系工事実施基本計画』を策定しています。これらは、巴川水系の治水に関わる将来計画であり、時間雨量92mm(概ね1/50年超過確率)の降雨に対する治水安全度の確保を目指すものです。
また、総合治水対策特定河川の指定を受け、放水路や遊水地といった河川施設の整備を軸に、流域の雨水流出抑制を含む総合的な治水対策を推進するために『巴川流域整備計画』を昭和54年度に策定し、時間雨量58mm(概ね1/5年超過確率)の降雨による浸水被害への対応を目的に、巴川本川の狭窄部の拡幅、大谷川放水路の開削、麻機遊水地第4工区(面積32ha)、第3工区(面積55ha)の整備をはじめ、雨水貯留浸透施設の整備などの流域対策を行ってきました。
さらに、流域整備計画(第1期計画)に基づく整備がある程度進み治水安全度が向上したことから、平成11年度に第2期計画に当たる『巴川新流域整備計画(時間雨量69mm(概ね1/10年超過確率))』を策定し、現在、麻機遊水地第1工区、大内遊水地の整備等を進め、引き続き静岡市と連携して流域対策を推進しています。
巴川流域整備計画・巴川新流域整備計画
昭和57年度に策定された巴川流域整備計画は、流域の開発と調整を図った総合的な治水対策であり、河川改修、放水路、遊水地事業の推進、雨水貯留浸透事業の推進による流域の保水・遊水機能の確保、適正な土地利用の誘導などを主な柱としています。当面の目標を時間雨量58mm(概ね1/5年超過確率)として、流域(130m3/s)と河川(670m3/s)の分担計画が策定されました。
さらに、平成11年度に策定された新流域整備計画では、時間雨量69mm(概ね1/10年超過確率)として、流域(115m3/s)と河川(955m3/s)として整備を進めています。
流域整備計画(時間58mm)の流量分担
新流域整備計画(時間69mm)の流量分担
このように、巴川の治水計画は段階的に着実な整備を進め、現在、新流域整備計画の実現に取り組んでいます。
段階的な整備の状況
総合治水対策の進捗状況
1) 河道改修
流域整備計画に基づき、河道改修は巴川本川狭さく部の拡幅を実施し、あわせて稚児橋の架け替えなどを行いました。
また、新流域整備計画に基づいた巴川下流の浚渫を実施しました。
稚児橋(河口より約2.7km)
2) 大谷川放水路の開削
大谷川放水路は、巴川の洪水を中流部の古庄大橋(9.7k)上流に分流施設を設け、小鹿・大谷を経て、駿河湾に直接放流する延長6,300mの放水路で以下を目的としています。
①巴川中下流域における浸水被害の軽減
巴川上流部の洪水の一部を分水し、巴川中下流域の浸水被害を軽減
②大谷川流域の洪水に対する安全度の向上
大谷川放水路計画に合わせ、大谷川等河道整備、支川改修及び低地帯の嵩上げを行い、洪水に対する安全度の向上
③津波・高潮による被害の軽減
放水路河口部に防潮水門を設置し、地震時の津波、台風時の高潮による被害を軽減
昭和48年より用地取得に入り、昭和53年より本格的な工事に着手し、昭和60年には流域住民の協力と理解のもと巴川と大谷川を結び暫定的に通水し、平成11年には年超過確率概ね1/5年規模(河口にて230m3/s)の暫定計画が完了しています。
大谷川放水路航空写真(平成16年10月撮影)
大谷川水門
現在、大谷川放水路では放水路底部への底張工により、さらなる流下能力の向上を図る整備を行っています。
放水路底張工(駿河区池田)
3) 麻機遊水地の 整備
麻機遊水地は昭和53年度から多目的遊水地事業として整備を進め、平成16年9月には緊急な整備を目指す流域整備計画(年超過確率概ね1/5年、時間雨量58mmに対応する第3工区(55ha)、第4工区(32ha)の合計87haで110m3/sが完成しました。また、新流域整備計画(年超過確率概ね1/10年、時間雨量69mmに対応する第1工区と大内遊水地が完成し、現在は第2工区の整備を進めています。
麻機遊水地全景
大内遊水地全景
4) 津波 対策
河口部の津波対策として、昭和56年から昭和63年までに河口から千歳橋の上流(約2.2k)までの区間の堤防嵩上げが完了し、巴川右岸の常念川合流点(約0.4k)に常念川水門、大谷川放水路の河口に大谷川水門の整備が完了しています。
5) 防災調整池・雨水貯留施設の建設
流域と河川の分担計画のうち流域分担流量に対応するためには、保水地域や低地地域において川へ流れ出る雨の量を減らすことが必要となります。
このため、各家庭の地先で雨水貯留施設を設置したり、既設の池を多目的に利用した調節池や学校の校庭などを利用した雨水貯留施設の整備が行われています。
巴川流域では、公共施設による雨水貯留施設は現在のところ約51万m3の雨水を貯留することが可能となっており、計画の69万m3に対して74%の整備率となっています。
公共施設における雨水貯留施設の整備状況
ため池雨水貯留施設(葵区胸形神社)
校庭貯留施設の状況(静岡市立清水浜田小学校)上段:降雨後、下段:平常時
6) 土地利用規制
巴川流域では、保水地域、遊水地域、低地地域の三地域区分に分類し、それぞれの地域特性にあった対応を実施しています。
特に、遊水地域での新たな土地の改変にあたっては、流域が従来から持つ遊水機能を保全するため、盛土抑制などの指導を行なっています。
流域整備の基本方針
盛土抑制の指導例
巴川三地域区分図