歴史
古代から中世
静岡平野に人々が住み始めたのは、弥生時代の中期以降のことで、安倍川の乱流による微高地に集落が発達し、低地で耕作が行われていたと考えられます。その典型が登呂遺跡であり、非常に高度な技術を持っていたことが知られています。
大谷川放水路の開削工事に先立って行われた、神明原・元宮川遺跡の調査では、縄文時代以降の様々な年代の遺物が出土しました。歴史的な出土品のほかに、ヨシやアシなどの植物が見つかっており、縄文時代前期には、古大谷湾が広がり、気候の変動によって海域の拡大縮小が繰り返され、その近くに湿地帯ができていたことや大谷川が蛇行をしていたことを示しています。
登呂遺跡
遺跡調査の状況(昭和60年9月)
旧大谷川河道
歴史的な出土品の中には、古墳時代から奈良・平安・中世の各時代に用いられた祭祀関係の遺物が大量に含まれています。
代表的な祭祀用具には、流し雛の起源とされる罪やケガレをはらう儀式に用いた人形、止雨や祈雨祭祀に用いた馬形があります。そのほかにも縄文時代の丸木弓、農耕用くわ、奈良時代の木簡など多種類、多数の遺物が出土しました。
出土した櫛
平成2年に、清水区北脇新田の巴川右岸では、河川改良工事中に直径3メートル以上の楠を刳り抜いた丸木舟が発見されました。調査の結果、14世紀初頭鎌倉時代後期のものと判明しました。古代東海道は能島地区付近を通過していたといわれており、巴川の渡し場として、当時は交通の要所であったことが推測されています。
出土した丸木舟
清水湊(巴川河口港)
勾配が緩やかでゆったりした流れの巴川は、近世まで河口港の条件が整っていました。戦国時代には、現在の稚児橋(2.7k)から清水江尻小学校付近(3.0k付近)は江尻湊と称され、今川義元をはじめとする今川氏の湊として海陸交通の要所でした。現在に残る江尻、入江の地名は、入り江の奥まった尻にあたるという意味で、当時の地形が想像できます。
武田信玄は駿河に侵攻し、巴川の蛇行を利用して江尻城を築きました。また、伊豆に基地を有していた北條氏の水軍に対抗するための出城を築き、武田水軍の基地としました。甲州の武田氏にとって巴川は海の玄関口として重要な存在でした。
徳川家康の駿府退隠(1607年)後には、巴川河口(港橋1.0k付近)に近代江戸時代の新たな清水湊が形成され、沿川には廻船問屋が建ち並び、船頭、商人、船大工等が住む駿府城下唯一の湊として賑わいを見せました。江戸時代の清水湊は駿府との密接な繋がりをもつ港として、駿府市場と江戸・大坂の両中央市場を結びつけ、また甲州・信州地方と江戸・大坂を結びつける役割を果たしました。
明治時代に入り、和舟から洋式帆船や蒸気船の大型船時代の到来により、水深の浅い巴川では港としての機能が維持できなくなり、外海への築港が始まりました。これにより巴川の河口港としての主要な役割は終わりを迎えることとなりました。
駿府と巴川
将軍職を離れ大御所として駿府城に退隠した後も幕府に大きな影響力をもっていた徳川家康は、全国支配を確固たるものとするための拠点として、駿府城や城下町の整備に着手しました。駿府城の拡張工事に際しては、取り壊した江尻城の石垣や伊豆から運ばれた石材を巴川などを利用した水運により現在の葵区上土を経由して駿府へ運び込みました。
家康は、駿府が全国に開かれ、結ばれる必要があると考えました。このため、駿府と清水湊を巴川を介して舟運で結ぼうと企てました。巴川河口に位置した清水湊は、幕府の軍港としての機能も担っていたため、幕府による廻船問屋の保護もあり繁栄を極めました。巴川が駿府城下町の発展に果たした役割は大きいといえます。
また、当時は安倍川が現在の静岡市街地を幾条にも流れていたため、駿府の城下町整備にあたり、島津氏に命じて作らせたともいわれている「薩摩土手」を築き、安倍川の流れを藁科川へ合流させました。これにより、麻機沼へ流入していた北川、横内川、後久川、大谷川と安倍川との表流水でのつながりは断たれました。
徳川家康は駿府を安定した拠点とするために、伝馬制の実施などの交通網の整備を行いました。この時、巴川に橋が架けられ東海道のルートが変更されました。その後、稚児橋と呼ばれるようになったこの橋は、姿を変え現在も市民生活に重要な橋梁として、巴川の水面にその姿を落としています。
稚児橋(明治時代)
稚児橋(現在、河口より約2.7k)