巴川水系

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歴史

古代から中世まで

静岡平野に住み始めた人々は、登呂遺跡に代表される非常に高度な技術を持っていたと考えられています。
安倍川の水流が押し流した土砂が堆積してできた微高地に、集落が発達し、低地では耕作が行われていたと考えられています。
大谷川放水路の工事に先立って行われた、神明原・元宮川遺跡の調査では、縄文時代以降の様々な年代の遺物が出土しています。
平成2年6月には、清水区北脇新田の巴川右岸で河川改良工事の最中に、直径3m以上の楠を刳り抜いた丸木舟が発見されました。後に、この丸木舟は14世紀初頭の鎌倉時代後期のものと判明しました。
昔の東海道は清水区能島地区付近を通過していたといわれており、巴川の渡し場として交通の要所であったと考えられます。

出土した丸木船の写真出土した丸木船

 

清水湊(巴川河口港) 巴川の河口部付近は、近世まで港として利用されてきました。戦国時代には、現在の稚児橋(2.7km)から清水江尻小学校付近(3.0km付近)までは江尻湊と呼ばれ、海陸交通の要所でした。
駿河に侵攻した武田信玄は、巴川の蛇行を利用して江尻城を築き、そこを水軍の基地として上洛に備えたそうです。
徳川家康の駿府退隠後には、巴川河口(港橋1.0km付近)に近世江戸時代の新たな清水湊が形成されました。この湊は駿府との密接な繋がりをもつ軍港としての機能も果たしていましたので、幕府による廻船問屋の保護もありました。駿府市場は巴川を介して清水湊を通じ、江戸・大坂の両中央市場を結びつけました。同様に甲州・信州地方と江戸・大坂を結びつける役割を果たし、大きな賑わいを見せました。
明治時代に入り、洋式帆船や蒸気船といった大型船時代が到来すると、外海での新たな築港が始まり、全国に開かれた港としての役割を終えました。

広重の描いた清水湊の写真広重の描いた清水湊

駿府と巴川

徳川家康は駿府城に退隠した後も幕府に大きな影響力を持っており、全国支配を確固たるものとするため、駿府城を拠点とした城下町の整備に着手しました。
駿府城の拡張工事に必要な石材等を、巴川の水運を利用して駿府城に運びこんだと言われています。
その後も、駿府城は巴川や清水湊を介して全国へとつながっており、様々な物資が巴川の舟運により運ばれました。運ばれた物資は、現在の巴橋(10.5km)付近で荷揚げされ、駿府城下へ移されたとされています。

駿府城跡の写真
駿府城

水天宮と常夜燈の写真
水天宮と常夜燈