瀬戸川水系

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歴史

流域の歴史

瀬戸川流域に人が住み始めたのは、今から五~六千年前のことで、上流部の丘陵上に縄文時代の遺跡が点在しています。 瀬戸川での川漁は、縄文時代にはすでに行われていたものと考えられます。 二千年前の弥生時代になると、下流部の平地では稲作が始まり、千三百年前の奈良時代には、瀬戸川を挟んで益頭郡と志太郡が置かれ、沖積平野には条里制と言う耕地整理が行われて広大な水田が開発されました。
稲作にとって瀬戸川の水はなくてはならないものであり、その恵みの水をもたらすのが高根山や清水山の女神だと考えられ、山の中腹にお寺や神社が建てられました。

また、瀬戸川は古来物資の運搬路としての役割も担っていました。 奈良時代、助宗で大量に生産されたやきもの(須恵器)は、瀬戸川を下って益頭郡や志太郡の村々に運ばれ、上流部の豊富な木材は、明治時代まで筏に組んで焼津まで運ばれました。明治時代の瀬戸川にまつわる災害の記録を見ると、上流部では大雨によって崖崩れを起こし、崩れた土砂や流木などが水のはけ口を塞いで濁流を作り、被害が引き起こされたことが分かります。そのことから、治水には砂防が必要であったことがうかがえます。

こうした瀬戸川の氾濫は大きく見れば上流部での山岳の侵食と土砂の運搬、下流部での沖積平野の形成といった自然現象であり、下流部での水田や耕地の拡大は、こうした洪水がなくては成立しなかったともいえます。 したがって、瀬戸川は古くから人間にとって恵みと災いといった二面性をいつも秘めています。 藤枝市や旧岡部町(現藤枝市)は戦国時代、今川家、武田家、徳川家など武将たちの勢力争いの舞台となり、江戸時代には、東海道五十三次の宿場町として栄え、東西交通の通過点として独自の宿場町文化を育んできました。また、人や文化の交流は東西だけでなく川に沿った南北の流れも存在しました。

このことは、かつて瀬戸川では上流からの材木の筏流しや、田中城から六間川を通じて新屋湊(現在の焼津漁港)から年貢米を積み出すなど舟運が盛んであったこと、瀬戸川水系の各河川で大切に祀られている「川除け地蔵」が朝比奈川北側の安倍川水系の藁科川沿川へ伝わっていることなどからもうかがえます。

川除け地蔵の写真
川除け地蔵

風俗風習

この瀬戸川流域に特徴的な「川除け地蔵」信仰は、瀬戸川や朝比奈川下流部の氾濫域に古くから住む人々が、洪水との闘いの中で川に対する畏敬の念を抱くようになり、江戸時代に入ると川の氾濫を防ぎ水死者の霊を慰めるため、かつての川の決壊箇所などに地蔵を祀るようになったものです。
また、川に対する畏敬の念から人々は川を他界との境界、あるいは身を清める場所として考え、河原で行うお盆の迎え火の行事である「あげんだい」や「灯籠流し」といった行事が今でも行われています。

灯籠流しの写真灯籠流し