波多打川水系

波多打川

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歴史・文化

波多打川は、「ふるさとの路※1」によると、昔は角田川あるいは、はと打ち川などと呼ばれ、歌枕の名所としても名高く、正平6年(西暦1351年)サッタ山合戦の時、足利尊氏が旗を立てたので、それ以来、旗打川と呼ばれるようになったと伝えられている。
また、波多打川が注ぐ興津から袖師にかけての海岸線は清見潟と呼ばれ、『万葉集』以降、多くの詩歌が歌われている。中でも有名なものが田口益人の歌で、「廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」と詠まれている。
明治末期には井上馨が広大な別邸・長者荘を営んだことを機に、海岸保養地として良好な別荘地が形成され、大正末期には波多打川河口に『袖師海水浴場』が移転し、国鉄袖師臨時駅が開設された。太平洋戦争による一時閉鎖もあったが、昭和40年代に埠頭建設で臨海が埋立てられるまで、夏場の風物詩として親しまれていた。
また、「ふるさとの路」によると、戦前は、波多打川の両岸に見事な桜が並び、近郷近在から路面電車やバスで、夜桜見物などをして楽しむ花見客で賑わったと言われている。
文化財としては、鎌倉時代に鋳造された県指定文化財の一渓寺鰐口、東光寺創立当時からあったと言われている市指定文化財の横砂延命地蔵堂及び仏像群の2件の文化財がある。

(※1:袖師地区まちづくり推進委員会が作成した袖師地区の史跡の解説とその位置図)

 文化財・史跡
文化財・史跡(出典:波多打川水系河川整備計画)