歴史
勝間田川では周辺の丘陵地において、約1万3千年前の縄文時代からの人々の生活の痕跡を見ることが出来ます。
縄文時代の代表的な遺跡としては、上流部の勝田井の口遺跡が挙げられます。この遺跡は平成13年の河川改修で発見されたもので、縄文・弥生・古墳時代の複合型の遺跡です。
弥生時代の遺跡も、勝間田川に沿うように上流部の勝田井の口遺跡、中流部の西川遺跡、下流部の白髭遺跡などが分布しており、弥生時代には稲作が定着し、人々が勝間田川周辺の低地で生活していたことがうかがえます。
その後、古墳時代から平安時代にかけては勝間田川の水を利用した稲作によって村落が発達し、安定した地域社会を形成していきました。平安時代後期には、勝間田川で収穫される米を基盤に勝間田氏が台頭し、勝間田城を居城に勢力を拡大しました。
江戸時代に入ると中下流部の平地部において広く水田の開発が進み、米の生産量が増加しました。
港橋付近は「川崎港」と呼ばれ、古くより勝間田川周辺と他の地域間で各種の交易が行われましたが、江戸時代の初めに掛川藩の外港としての役割を担うようになると勝間田川流域をはじめ広くから集められた米を搬出する起点として賑わいを見せました。川崎港の繁栄はその名残が現在まで続く鹿島神社の御船神事に見ることが出来ます。
勝間田川河口部の港としての機能は明治時代に入って東海道線の開通により役割を終えました。