梅田川水系

梅田川,境川

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歴史

梅田川流域内に位置する二川宿は、江戸時代に整備された東海道の宿駅(東海道五十三次)のひとつで、江戸から33番目の宿である。当初は二川村と大岩村の二ヶ村で一宿として業務を行っていたが、交通量増加に伴い、小さな両村にとって負担が増大したため、正保元年(1645)、幕府が二川村を現在の地に移転させ、二川宿と加宿大岩町からなる宿場を形成した。
移転の際、二川村の一部が大岩村域に入ったため、二川が土地をもらう替わりに、宿場で用意する馬100疋のうち17疋余分に負担することになった。その由来から名付けられた十七疋橋が現在、梅田川に架けられている。

 梅田川流域周辺の主な街道と宿場
梅田川流域周辺の主な街道と宿場(出典:梅田川水系河川整備計画)

 二川村と大岩村の移転
二川村と大岩村の移転(出典:梅田川水系河川整備計画)

 梅田川の十七疋橋(じゅうしちひきはし)
梅田川の十七疋橋(じゅうしちひきはし)(出典:梅田川水系河川整備計画)

宿場には公用旅行者や大名が宿泊・休憩する本陣と、一般旅行者のための旅籠屋が建ち並び、文政三年(1820)の記録では、本陣・脇本陣が各1軒、旅籠屋は30軒で、人数は1289人であった。本陣役だった馬場家に残された宿帳によると、宿泊が25%に対し小休・昼休が75%で、主に小休止の場所として利用されていたようである。これは二川宿が浜松と吉田という比較的大きな宿場に挟まれていたことによるものと思われる。

 東海道二川宿絵図(江戸時代後期)
東海道二川宿絵図(江戸時代後期)(出典:梅田川水系河川整備計画)

二川宿は新しく作られた宿場であるため、街区割りが計画的に行われており、現在の町並みや道は当時の痕跡を今なお留めている。

 大正期の二川宿本陣
大正期の二川宿本陣(出典:梅田川水系河川整備計画)