歴史
戦国時代
興津川流域は、戦国時代末期に武田信玄の駿河への進出により武田、今川、北条の合戦場となった地であり、横山城、薩埵(さった)山砦や和田島砦などの史跡が残されています。
武田氏の進攻の折、甲州街道(身延道)が整備されました。
江戸時代
江戸時代には東海道や身延道などの街道が通り興津、由比、蒲原は宿場町として栄えたことから、この地域は本陣跡などの名所・旧跡が残されています。東海道五十三次では、興津は17番目の宿場町で、大井川と同じように東海道興津川越しが行われていましたが、現在では興津東町公園内に川越し(川会所)跡が残されています。
興津川河口部付近には江戸時代に朝鮮通信使が宿泊した興津清見寺があり、多くの文化財が残されています。
明治時代
明治の偉人である西園寺公望や井上馨が別荘を構えたところでもあります。
井上馨候の銅像
流域の歴史
興津川流域では、古くは興津川の豊富な流量を利用した木材の 筏流しが行われ、製材業や、製紙産業が盛んでした。特に西河内村和田島では、興津川の清流を利用した紙漉の和田島紙を製造し、やがて周辺各地に広がり駿河半紙と呼ばれ、当地方の特産品として周知されました。駿河半紙を基に、明治20年代に漂白した改良半紙が製造され、興津町内で工場生産が始まり、一時紙工業の生産地として発展しました。