伊東大川水系

伊東大川,寺田川,小沢川,本郷川,泉川

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流域の歴史

(地形の成り立ち)

伊東市を含む伊豆半島は、幾多もの火山の噴火の繰り返しにより形成されたものであり、20~30万年前にほぼ現在の姿になったとされ、その後は、15万年前頃から伊豆東部の単成火山群が活動を始め、現在に至っている。伊東大川の源流である大室山も伊豆東部火山群に属する単成火山であり、約4,000年前の火山噴火によって形成されたものである。

(人間生活の始まり)

伊東大川流域で人間の生活が営まれるようになったのは、少なくとも縄文時代とされており、約数千年前に営まれた人間生活の記録を伝える遺跡として、現在の伊東港の沿岸から約300mの場所にある井戸川遺跡が発見されている。当時は遺跡近くにまで海が広がっており、遺跡の出土資料から、山でイノシシなどの獣類や木の実を採り、クジラやイルカなどの外洋性の魚介類など黒潮の恵みを活用する生活が営まれてきたことがわかっている。
弥生時代になると、伊東大川の近くに集落が立地するようになり、今日の伊東の原型が形成されたものと考えられている。当時の記録を伝える遺跡として、伊東大川の河口から約1㎞の場所にある日暮遺跡があり、弥生時代に一般的な農耕生活の痕跡が残されている。以降は、農業と漁業を中心とした生活が送られるようになり、その中で人々は、伊東大川を洗濯の場やアユなどの魚採捕の場として利用するなど、伊東大川と関わりあいながら生活を営なんできたとみられる。

 流域周辺の遺跡位置図
流域周辺の遺跡位置図

 井戸川遺跡(縄文時代)から出土した狩猟採集具
井戸川遺跡(縄文時代)から出土した狩猟採集具

 日暮遺跡(弥生時代)から出土した土器
日暮遺跡(弥生時代)から出土した土器

(平安時代~江戸時代)

平安時代末期には、藤原氏から分かれて伊東を名字の地としていた伊東一族が、伊豆一円を統合し、伊東の治水や文化発展に尽くした。
江戸時代になると伊東市内には16カ村が成立するが、これらの村々はおおむね3つの領主に分割支配されていた。当時は、魚介・木材・薪炭などの伊東の名産が江戸に納められており、中でも「温泉」は将軍家にも愛用され、樽詰めされ、船で運ばれて江戸城の大奥で珍重されたという。また、史上最大の城と言われる江戸城は、その莫大な量の石垣用の石材を伊豆から運んで築城したとされているが、石材の中心的な産地の一つは伊東に求められ、毎月2度3,000艘の船が江戸との間を往復したという。さらに、江戸城の築城が始まる直前には、家康の外交顧問の英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が日本初の洋式帆船を伊東大川(松川)河口で建造したと言われている

 伊東大川河口部の三浦按針メモリアルパーク
伊東大川河口部の三浦按針メモリアルパーク

 伊東祐親の墓(伊東市文化財)
伊東祐親の墓(伊東市文化財)

(伊東温泉の歴史)

現在の伊東市の産業の中心となっている伊東温泉の歴史は古く、開湯は平安時代ともそれ以前とも言われている。江戸時代には将軍家への献上湯も行われていたとされており、昔から湯治場として愛されてきた。
明治の中頃になり、三島までの鉄道交通や東京から伊東までの海上交通が確立すると、これらを利用して東京方面からの来遊する人が多くなり、また、大正時代になる頃には、伊東大川の両岸に多くの温泉のある旅館や別荘が建てられ、温泉地伊東の姿が形成されていった。その後、昭和13年の国鉄伊東線の全通をきっかけに近代的な温泉保養地として発展、さらに、昭和36年の伊豆急行電鉄の開通により伊豆周辺の観光拠点として躍進し、現在に至っている。