治水の歴史
八木沢大川は、古くは寛文11年(1671年)の「亥の満水」として語り継がれている洪水や、大正8年(1919年)の「八木沢中島の洪水」により被害を受けました。昭和に入ってからも、昭和13年6月(1938年)の梅雨前線による出水や、昭和36年6月(1961年)の梅雨前線による出水により、多大な被害が発生しました。特に、昭和13年6月の出水では上流より流れ出てきた土砂や流木により中島橋が閉塞し、溢れた洪水が国道を流出させるなど、八木沢地区に甚大な被害をもたらした上、陸上交通が寸断されたため約2ヶ月間海上交通に頼ることになりました。
また、昭和36年6月の出水では、山林等の崩壊を招き、多量の土砂、岩石、流木が発生し、発生した土石流は河川を流下し、中島橋等で河川を閉塞させ、堤防の決壊を誘発しました。この決壊により低平地に流れ込んだ土石流で八木沢地区一帯が泥沼化となり、松原川流域と合わせ八木沢地区で家屋が1軒流出した他、2軒を半壊させ、約30ヘクタールの水田を埋没させるなど多大な被害を負わせた上、陸上交通網を寸断しました。
また、安政元年(1854年)の安政東海地震で来襲した津波は、八木沢大川及び松原川を遡り、中島の妙蔵寺まで達しました。その津波により、八木沢地区で10軒の家屋が流出し、3人が死亡した記録が残っています。
昭和36年の「集中豪雨」による被災写真