馬込川水系

馬込川,芳川,御陣屋川,北裏川

TOP歴史文化 > 歴史

流域の歴史

馬込川流域は、三方原台地と磐田原台地に挟まれた天竜川下流平地にあたる。この地域は、かつては天竜川が乱流していたが、湧水など水に恵まれた台地縁辺の崖線付近には、集落跡、貝塚、横穴古墳などと思われる遺跡が見つかっており、古代より人々の暮らしが営まれていたことが推察される。
浜松は、中世において、元亀元年(1570年)から17年間徳川家康56万の城下町として栄えた。現在でも、浜松城跡は市指定史跡である。また、徳川家康が城を構えた後は、譜代大名12家が約6万石を領し、本陣を6つ持つ東海道の大宿場町として栄えた。
明治時代になり、遠江国が廃止となって後、馬込川水系流域は浜松市と浜名郡となり、町村合併を重ね、現在の浜松市となった。

 浜松城跡
浜松城跡

流路の変遷

三方原台地と磐田原台地に挟まれた天竜川下流平野には、特徴的な地形として旧河道(旧低水路)が網目状に分布している。これは、かつて天竜川が激しく幾筋にも分かれて乱流していた跡であり、現在の馬込川も天竜川の分流に由来している。

古代

天竜川(麁玉川と呼ばれていた)は、現在の鹿島・二俣間にかかっている鹿島橋あたりより南に折れ、西鹿島の洪積台地を削り、現在の遠州灘鉄道東側を南下していたと思われる。
古い記録によれば、霊亀元年(715年)に麁玉川の堤が決壊し、流域に大被害を与え、さらに仁寿3年(761年)7月19日、麁玉川の堤防が900mにわたって決壊したため、労役人夫延べ30万7000人余りによって修築が行われたとされている。このとき 修築された堤防は、「天宝堤」と呼ばれ、浜松市指定の史跡として今でもその面影を残している。

中世~近世

その後も、天竜川は度々の洪水により流路を変えてきた。江戸時代に入り、幕府により治水工事が行われ、数度にわたり河道が改修された。当時の馬込川(小天竜川)を閉め切った「彦助堤」は延宝3年(1675年)に工事が行われ、これにより馬込川はほぼ現況の河道に近いものとなった。

河川名の由来と成り立ち

馬込川

かつて、天竜川の下流部では、幾つもの分流とともに、永い間乱流を繰り返し、現在の流路を形成してきた。古記録では、天竜川下流部において「麁玉川」「広瀬川」等の分流が見られる。これらは、旧河道からみて、現在の馬込川につながるものといえる。「麁玉川」は現在でも「有玉」という地名で残っており、坂上田村麻呂にちなんだ伝説に由来する。「広瀬」の名は、沿川に存在していた古地名にみられる。
馬込川の名称は、享保14年(1729年)に馬込村庄屋より時の領主に差し出された書面にみられる。それによると、馬込の地に馬込端を架けたゆえに馬込川となったという。この東海道筋付近一帯は江戸初期には「馬籠」「馬込」の両方で示されていた。馬込(籠)の語源としては、馬をひき入れておいた場所の意味をもっており、街道沿いであることから馬との関わりに由来するという説がある。

芳川

かつて、芳川の水源は和田村永田にあり、そのため永田川とも呼ばれていた。両岸に葭が群生していたため、昔は葭(よし)川と呼ばれていたようである。それが転じて芳川となったらしい。
明治初期の浜松県の記録のなかでは、既に芳川として記されているが、読み方として現在の「ほうかわ」になった理由、時期は定かではない。

御陣屋川

現在の浜北市内野付近はかつて辺田と呼ばれる地域であったことから、辺田川と呼ばれていた。>br /> 御陣屋川沿川一体は徳川三代の頃からの旗本近藤氏領であり、天保年間に引佐郡大谷村から移り来た近藤備中守が、辺田の丘陵上に陣屋の館を移築して陣容を改めた。河川名もこの陣屋に由来する。明治2年には陣屋は廃止され、現在の内野小学校の前身となり、その頃から御陣屋川と呼ばれ始めたという。

北裏川

北裏川に関する古い記録はないが、旧河道からみると、天竜川から芳川へ通じている河川であったと思われる。芳川左岸側は、中世においてはこの地域の中心地であり、その北側(裏)であったことから北裏川という名が付けられたとも考えられるが定かではない。