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文化財

横地城跡

遠州きっての名族=横地氏一族が代々住んだと伝えられる典型的な山城跡で、県の重要文化財(史跡)の指定を受けています。平安中期、源八幡太郎義家の血を引く初代横地太郎家永により築城(1065年)され、鎌倉時代を経て室町中期、今川義忠に討たれて落城(1476年)するまでの約400年間栄え、その史実は「吾妻鏡」「保元物語」などに記されています。県下最大といわれる五重の宝篋印(ほうきょういん)塔の上部が現存し、往時の名声をしのぶことができます。
毎年4月に桜まつりの行われる千畳敷、西の丸を中心に東へ行けば中の丸を経て金寿城本丸(東丸)にいたる複雑な尾根道が続く、西に向かえば、一騎駆け、金玉落とし、土墨跡、身討原、室町庭園跡、城主居館跡などが散在しますが、多くは雑木林や茶園となっており、わずかに一族の墓だけが、その名残をとどめています。城山の麓にある慈眼寺から牛池、上池を経て林の中に尾根道にいたる散歩道があります。この道と谷田大池に抜ける山道には豊かな自然が残されており、近年では隣の丹野池に抜ける道も整備され、合わせて歴史を訪ねる散策ができます。

横地城跡の写真横地城跡

高天神城址

『高天神をとるものは遠州を制す』と伝えられる東海の名城です。高天神城の築城年代には諸説があり、特定することはできませんが、室町時代に今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で築かれたと言われています。
今川氏滅亡後は、徳川家康の持ち城となり、小笠原長忠が城主となりました。元亀2年には、武田信玄が内藤昌豊に命じて攻めましたが、城を落とすことが出来ませんでした。しかし、天正2年(1574年)、武田勝頼が2万の大軍で攻め、城将の小笠原長忠はついに城を明け渡しました。
天正3年(1575年)、長篠の合戦で大敗した武田勝頼は滅亡への道を転げ落ちます。家康は、高天神城攻略の足場として横須賀城を築き、ついに天正9年(1581年)、高天神城の奪還に成功しました。徳川家康の手に戻ると、遠江最大の武田氏の拠点であった高天神城は廃城になりました。

高天神城址の写真
高天神城址

諏訪原城跡

永禄12年(1569年)11月武田信玄が標高218m、東西1,454m、南北580mの城地に遠州攻略の拠点として築城しました。
天正3年(1575年)7月徳川家康との激戦の末、同年8月徳川方の城となりましたが、天正10年(1582年)武田氏滅亡により、その重要性を失い廃城となります。
その後は天守跡や堀跡が残されており武田式築城法の典型として、武田の守護神である諏訪明神が祭られました。
現在でも空掘や井戸跡が残され、戦国時代の典型的な山城の構えを伝える貴重な歴史的資料として、昭和50年(1975年)には国の重要文化財の指定を受けました。

諏訪原城跡の写真
諏訪原城跡

黒田家長屋門

黒田家は武門の出で、永禄の頃(1560年代)から現地に居住し、江戸時代には旗本本多日向守の代官職を務めました。屋敷は濠(ほり)をめぐらした壮大な規模の住宅で、昭和48年には長屋門と母屋が国の重要文化財に指定され、平成5年には米蔵・東蔵および濠を含めた屋敷全体が追加指定されました。
長屋門は18世紀中頃の建築と見られ、置千木を11本置く茅葺(かやぶき)の屋根は2,000石の格式を示すもので、桁行き68尺(20.6m)に及ぶ大規模なものです。昭和51年(1976年)の解体修理によって元の姿に戻されました。
母屋は、安政の地震以後の建物と考えられます。建材には太い柱や梁を用いて、構造的にも4尺幅(1.2m)で2列に柱を立て、梁を2重にわたし、地震対策を施しています。東蔵は平成9年に解体修理を行い、綿密な調査と共に元の姿に修理されました。中世城館の遺構として近世・現代まで伝わる貴重な遺跡です。

黒田家長屋門の写真黒田家長屋門

正林寺

1517年に今川義忠が戦死した土地である塩買坂※に、義忠の子である氏親によって建立されました。寺の境内には義忠公家臣の墓があります。また、寺所蔵の今川6代義忠自作の木像と、今川7代氏親の正室寿桂尼の画像は、小笠町指定有形文化財となっています。
文明8年横地氏・勝間田氏を討った今川義忠は、その帰路塩買坂にさしかかった時、横地氏の残党に不意をつかれ討ち死にしました。その後、義忠の菩提をとむらうため塩買坂の近くに昌桂寺を開き、これが後の正林寺となりました。現在正林寺には、義忠の位牌と五輪塔が安置されています。
※塩買坂は、相良から掛川、秋葉山へ向う、秋葉街道の難所の一つであり、塩や魚を運んだため塩買坂と呼ばれています。街道の変化によりその位置は何度か変化しました。

正林寺の写真正林寺

寿桂尼肖像画

寿桂尼は、今川氏親の亡き後駿河の尼御台として実力を発揮し、女戦国大名と呼ばれた人物です。この掛け軸は作者、制作年代とも不明ですが、寿桂尼の肖像画はこの一枚のみだといわれています。
平成2年小笠町(現菊川市)指定有形文化財に指定されました。

今川義忠木像

義忠は今川家の戦国大名としての基礎を築いた人物です。この木像は、高さ24.5cmの座像で一見僧形に見えますが後ろは髷を結っています。
平成2年に小笠町(現菊川市)指定有形文化財に指定されました。

井の宮神社

井の宮神社は、江戸時代初期の義人、中条右近太夫をたたえて建立した神社です。右近太夫は、干害の続く嶺田地域の窮状を救うため、慶長12年(1607年)徳川家康に直訴して、嶺田用水を完成しました。しかし右近太夫は、越訴の罪をとわれ処刑されてしまいました。

井の宮神社の写真井の宮神社

小笠神社

四十二代の文武天皇の御后である十善高妃は、幼少より1日として御拝を怠らず、熊野三神を深く信仰していました。御懐妊の際「安産で男子が誕生致しましたら、東に三つの御社を建て勧請なしまいらせ日夜御敬います」と、那智の熊野三神に御祈願していたところ、天道神明も感心したのか御后の願いが叶ったかのように、安産にて皇子が誕生しました。この皇子が後の聖武天皇となります。
帝と御后は「願いが叶ったからには、一日も早く東方の国に三つの社を建てて勧請申しあげなければならない」と言うことで建てられた社の一つが、静岡県掛川市の「小笠神社」(那智の宮)、本宮は大須賀町の三熊野神社、新宮は浜岡町の高松神社です。
「小笠神社」は家運繁栄の神様です。永禄天正の年間、掛川城攻め高天神城攻略等には当小笠山に砦を設けられ戦勝祈願をし、文化2年(1805年)には五穀豊穣や海幸守護の神として古くから漁者の敬仰されていました。

小笠神社の写真小笠神社

小夜の中山

「年たけて、また越ゆべしと思ひきや、命なりけり小夜の中山」という西行法師の歌に詠まれたように、東海道の歌枕として名高いところです。東に金谷宿、西に日坂宿をひかえ、急崚な坂にはさまれた尾根伝いの峠で、街道の難所の一つとして数えられていました。
小箱根とも呼ばれた急勾配の道は、うっそうとした樹木に埋もれ、当時は山賊なども横行していました。近隣には歴史や伝説を伝える史跡も多く、往時の情緒たっぷりに味わえる散策コースも整備されています。

小夜の中山の写真小夜の中山

夜泣き石

夜泣き石は、小夜の中山の峠にある街道の、真ん中に置かれた不思議な丸い石です。古代では峠の神に手向けをした場所を示すものでありましたが、そこに夜泣きの伝説が加わり、現代に語り継がれてきました。
伝説では、その昔、海老名の里に住む妊婦が日坂宿に向かっている途中に山賊に襲われ斬り殺されてしまいました。その妊婦の魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎泣いたため里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれたと言われています。この石の下の砂を夜泣きする子供に与えれば、たちまち泣き止むなど、夜泣き石にまつわる話はさまざまに伝えられています。現在は峠に建立された久延寺の境内に祭られています。

夜泣き石の写真
夜泣き石