文化財等
天竜川流域には、数多くの名勝や天然記念物、史跡、民俗文化財、重要伝統的構造物群保存地区等が存在しています。
静岡県内のものとしては、名勝が1件(浜松市の龍澤寺庭園)、特別天然記念物が3件(浜松市北浜の大カヤノキ、京丸のアカヤシオ及びシロヤシロ群落、磐田市の熊野の長フジ)、史跡が2件(浜松市の三岳城跡と蜆塚遺跡、磐田市の遠江国分寺跡)が指定されています。
天竜川流域の近代土木遺産
天竜川流域には、川とともに歩んできた歴史を反映し、橋梁、分水工、発電所、堤防といった川に関連した数多くの土木構造物が残されています。それらの多くは近代土木遺産に指定され、完成年代、規模の大きさ、技術力の高さなどを基準とした評価がされています。
1.中部橋(なかつべばし)(浜松市)
浜松市佐久間町に架かる全長167mの人道橋で、昭和12年に完成しました。戦前の鋼トラス補鋼された吊橋としては、現存するもので最大スパンです。
中部橋
2.鹿島橋(浜松市)
昭和12年完成。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス併設側道橋は日本初の斜張橋といわれています。橋脚は2本の柱がアーチで結ばれています。昭和12年(1937年)に建設され、延長216.6m、幅員6.0mの規模をもっています。
鹿島橋
3.彦助堤(浜松市)
江戸時代初期に、開田を目的として建造された堤防です。庄屋松野彦助が自らの命を投じて完成に貢献した事がその名の由来となっています。
江戸時代の初め頃、天竜川は大天竜、小天竜の二つに分かれて流れていました。浜北市内を貫いて流れる小天竜もしばしば氾濫し、人々を苦しめました。慶安年間(1648~52年)の堤防は、1673年(延宝元年)と翌年の洪水で決壊してしまいました。そこで新原村の庄屋松野彦助は、領主近藤縫殿助の援助指導の下に率先して所有地内に大築堤工事を実施しました。堤防を造り小天竜の流れを締め切って、本川に合流させる工事が行われましたが、川の流れが強く工事が進みませんでした。それを見た庄屋松野彦助は、自ら人柱になると川に身を投げ惨死を遂げました。その熱意にうたれた農民の努力により、延宝3年(1675年)、大堤長61間高1丈、土堤長58間高4尺の堤防が完成し、この堤防を「彦助堤」と呼ぶようになったそうです。この地域の人々にはよく知られている伝説です。本来は開田を目的としたものでしたが、開田はもとより浜松城の防衛に役立ち、又東海道の交通管理上にも都合が良いと言う一石二鳥の大きな効用がありました。しかし現在ではその一部しか残っていません。
彦助堤
4.天保堤(浜松市)
1200年前の天平宝字年間に建造された堤防跡です。「続日本紀」によると、天平宝字5(761)年の水害で約1,000mの堤防が決壊したため、延べ人数303,700人あまりの労力によって修築されたと記されています(平安時代の「延喜式」によって算出した遠江国の全人口が約98,000人と推定されます)。この堤防は小林から浜松市有玉まで続いていたと言われていますが、今ではわずかに残っているにすぎません。しかし1,200年前の工事の跡が残っていることは珍しく貴重です。修築堤防の断面は天端3.6m、高さ1.36m、敷高5.4mで当時最高の復旧工事をしたことが想像できます。
天保堤
5.JR天竜川橋梁 (下り線、 磐田市、浜松市)
浜松市と磐田市に架かる長さ1208m、19スパンの橋梁です。大正元年に完成し、設計は旧鉄道院、製作は米国の橋梁会社で行われました。現存する戦前最長のトラス橋です。
JR天竜川橋梁
安間川流域と一雲済川流域の文化財等
安間川流域の文化財等
安間川流域には、旧東海道や自然堤防を中心に発達した市街地に蛭子森古墳(浜松市指定史跡)、法橋の松(県指定天然記念物)、妙恩寺の古文書(浜松市指定有形文化財)などの史跡・文化財があります。また、最下流部にはかつての輪中堤が現存するとともに、天竜川の治水に尽力した金原明善翁の生家が位置するなど、古くからの天竜川との関わりがしのばれます。
一雲済川流域の文化財等
一雲済川は天竜川の氾濫原に位置しており、左岸の台地に沿って多くの文化財・史跡が残されています。
埋蔵文化財としては、磐田原台地上とそれに続く尾根に4~7世紀の間に作られた古墳群があり、舌状の台地には縄文~中世に至る間の複合住居跡が残されており、その証拠となる土器片や石器が発見されています。その他にも、田川沢合流点左岸付近に亀井戸城跡(戦国時代)、豊岡村役場東側には谷町ヶ谷古墳群などがあります。
上流部には、一雲済川の語源とも考えられる萬世山(まんせさん)・一雲斎があります。一雲斎は、約540年前に時の高僧・川僧慧済(せんそうえさい)によって開創されたものです。