神沢川水系

神沢川

TOP歴史文化 > 文化財

文化財

史跡

神沢村

江戸時代、神沢は加宿として由比宿に所属していましたが、明治8年の大小区制により、新たに蒲原宿に所属しました。
永禄4年11月6日付の今川氏真の文書によると、神沢では早くから製塩が営まれ、特に志田家は江戸時代を通して塩役免除を継承してたと記されています。
天和3年10月の「神沢村塩畑検地帳」によると、その頃の神沢村は総家数66軒に対して塩田所有者は51軒で、村中の家が塩田によって生計を立てていたということが分かりました。

海宝寺

海宝寺は、江戸時代に旅に欠かせない通行手形を発行していた寺です。宗派は臨済宗妙心寺派(旧清見寺末)に属し、釈迦如来が奉られています。
なお、一度全焼して約50年間建物のない時代もありました。

由比城跡

室町時代、今川氏が武田軍の侵攻に備えて作った城です。天文・永禄の昔、由比助四郎光教(ゆひすけしろうみつのり)や、由比美作守政信(ゆひみまさかのかみまさのぶ)が拠った城跡であったため、麓に片岸・腰巻の地名が残されています。

由比城跡の写真

神沢村の山桃

文久元年に編纂(へんさん)された「駿河志料(するがしりょう)」には蒲原西部の村の特産物として桃があげられており、「山の中段にありて花も賞すべし」と謳われています。
また、勝地真景図(しょうちしんけいず)庵原郡(いはらごうり)には「由比駅神沢村桃林ノ図」として東神沢村片瀬山の中腹にかけて山桃の林が描かれています。この山桃は嘉永6年2月6日、元蒲原宿問屋職の渡辺利左衛門金璙が69歳の時に、神沢村志田市郎右衛門宅から山桃の木を取り寄せ奥庫の前に植えたという記事「生涯略記29」の内容と一致しています。
山桃の木は戦時中まで神沢山一帯に群生していましたが、戦後に製塩用燃料として乱伐され、現在は残っていません。

東神澤村片瀬桃林古絵図の画像