治水事業の沿革
安倍川の治水事業
治水が進んでいない中世以前の安倍川では、谷底平野から扇状地頭部に出た川の流れが扇状地内を乱流し、川幅が拡がって流下していました。
室町時代に入ると、今川氏が平野の高い部分に城を築くために幾筋もの支流を西へ追いやり、ほぼ現在の流路を流れるようになったといわれています。安倍川における治水事業は1500年代末に始まった新田開発と併せて、新田を洪水から守るために、山から川に向けて堤防(霞堤)を築いたことが始まりといわれています。
徳川家康が「駿府」に移る際に、区画整理の一環として慶長年間に築堤を行い、その後も築堤が行われたが、いずれも霞堤と呼ばれる形式のものであり、洪水時に二重に防御する役割を持って駿府の町を守っていました。江戸時代においては天領として駿府城代・駿府町奉行所がおかれる東西交通の要衝であり、幕府より工事費が支出される国役普請がされ、幕府の御普請役が出張し工事にあたり、霞堤が築堤されました。
安倍川における本格的な治水事業は、流域に甚大な被害が生じた大正3年8月の洪水を契機として、始められました。