文化財等
史跡
堀川運河(山居沢川)
富士川舟運は慶長10年、徳川家康の命令で京都の角倉了以(すみのくらりょうい)によって開かれました。その後、明治8年に静岡・山梨県の援助を受け、蒲原と鰍沢(かじかざわ)近辺の有志によって岩淵から蒲原堀川に至る全長3kmあまりの灌漑(かんがい)用水を兼ねた運河が完成しました。堀川には舟だまりも造られ、出入りの舟で活気を呈しましたが、明治22年の東海道線や身延線の開通により富士川舟運は衰退し、堀川運河の役割も終えました。なお、現在の山居沢川でも、かつての船溜りを髣髴とさせる景観に配慮した整備が行われています。
蒲原宿
蒲原宿は慶長6年に開設された、東海道53ヶ所の宿場のうち江戸から数えて15番目にある宿場です。宿場には治安確保のために、朝方に開放し夕刻に閉鎖していた木戸が東と西にありました。
「東木戸口」は諏訪神社西側の道路が升形(ますがた)となって残っており、文政13年12月に入り口の目印になるように建てられた常夜灯は現在も境内に残っています。
「西木戸口」は西町茄子屋の角にあり、現在では木戸門はなく、その跡だけが残っています。本町にある「本陣跡」とは西本陣を指し、宿場開設から廃止までの270年間、代々平岡久兵衛が世襲してきました。
明治元年12月8日の明治天皇が江戸から京へ御還幸(ごかんこう)の際に、西本陣が行在所にあてられました。なお、明治4年になってからは本陣が廃止され、間もなく宿場も江戸幕府が解体しました。
東木戸口
藤堂堤
藤堂堤は宝永3年に、津波や高潮から蒲原宿を守るために造られた堤防です。現在では、大部分が取り壊され、堀川付近にわずかにその跡が残るのみとなっています。
蒲原「夜の雪」の碑
歌川広重は、天保3年4月幕府の八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)の一行に加わって上京しました。その際に描いた東海道の旅の風景が、広重の出世作となった「東海道五十三次」続絵です。
その中の「蒲原」は、五十三次55枚中の傑作とされ、人物の背景になっている宿のたたずまいは、構図から宿の中央部の山居沢川畔から問屋場(とんやば)付近と本町の家並みを描いたであろうと推測されています。
なお、この絵に描かれている雪は、想像により描かれたものだと意見する研究家もいるようです。
水神さん
この地が堀川運河で栄えていた頃は、街道から堀川に通ずる道は甲州(山梨県)向けの塩荷物や江戸へのご廻米の往来で、たいへん賑わっていました。
昭和の初めに、この運河に水神社のご神体が流れ着いたのを、住民が拾い上げて小さな祠を建てて奉りました。そして昭和35年7月に、堀川区民の寄付によって現在の水神社が建てられました。
文化財
旧五十嵐歯科医院
旧来の町家の特徴を残しながら、外観が洋風というユニークな造形が評価され、平成12年に国の登録有形文化財に指定されました。
大正時代より以前に町家建築として建てられたもので、大正3年に当時の当主故五十嵐氏が歯科医院を開業するにあたり、町家を洋風に改築しました。その後、昭和15年頃までに、西側・東側部分がそれぞれ増築され、現在の形になりました。
志田邸
安政年間に建てられた町家で、蒲原に残る最も古い建物の一つとして、平成13年に国の登録有形文化財に指定されました。
もとは「やま六」という屋号の醤油や味噌醸造元の商家であり、外観は切妻造平入瓦ぶきで、土間の戸口には大戸の痕跡が残っています。東海道に面した店の間には、現在でも「しとみ戸」が使われており、往時の商家の面影を残しています。
和泉屋
天保年間に建てられ「和泉屋」の屋号で上旅籠として使われており、平成18年、国の登録有形文化財に指定されました。
築150年以上を数え、2階にある櫛形の手すりや柱から突き出た出桁(でげた)も当時から現存するものです。現在は、鈴木商店の名で「お休み処」として観光客に開放されており、住民アンケート「蒲原宿内の残したい風景ベスト10」の中で、第1位に選ばれています。
鈴木商店(かつての和泉屋)